三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

免許センターに行く

 昨日は私の免許更新ではないのですが、家族を乗せて久しぶりに熊本県免許センターまで行ってきました。
 免許センターは2階が更新のための諸施設がある場所ですが、待つ間に席が空いていた西側の椅子に座りました。

(西側の椅子には誰も座っていませんでしたが、帰る際には合格発表などがあっていて、数人の受検者と係官がテーブルに付いて話していました)


 これまで何度も免許更新には行っていますが、普段は受付をすると流れ作業のように床面の矢印に沿って動きながら、適性検査・手数料支払い・写真撮影・法令講習と進み、帰る際に免許証が即日交付されるものです。
 そのため、施設内を見学することはこれまでなく、初めて免許センターの北側には自動車学校のような技能検定のための施設があることに気が付きました。

(二輪やけん引など様々な技能試験が行われるようですが、この日は大型特殊の技能試験があっていました。この出口を抜けると下に降りる階段がいくつもあります)


 ちょうどそこは技能試験を受検するための待合場所のようで、実地試験会場への入り口が目の前にあり、二階から外に出てみました。
 最初は勝手に外に出ても大丈夫かなと心配しましたが、出口には特に注意書きもなく、数人が下へ降りる階段部分で技能試験を見ていて、私も同じように階段の踊り場付近から外を眺めました。

(ポールで囲まれた部分は、車庫入れの部分でポールに当てずに車庫入れしなければならないようです)

(タイヤショベルと呼ばれる「ホイールローダー」という特殊車両なのでしょうか?それなりのスピードで外周を走っていました)


 階段で見ていた人たちは、受検者の知り合いのようで、仕事仲間のような感じでした。もしかしたら、既に受検が終わった後なのかもしれません。


 この雰囲気を見ていると、もう50年前になりますが、私が自動二輪の免許を取りに行った時のことを思い出しました。
 当時は、まだバイクの免許は「原付」と「自動二輪」という2つの区分しかなく、16歳の誕生日になって、まず原付免許を取り、その1か月後に自動二輪の免許に挑戦しました。


 受検会場は、現在の免許センターではなく、熊本市の北部にあった植木町の県免許センターでした。
 原付免許を取るまでオートバイに乗ったことはなく、学科試験だけで免許が交付された時代ですが、父親に「バイクが欲しい」と言ったら、なんと行きつけの自転車屋さんの店頭にあった中古のバイクを買ってきたのです。

(ネットで見つけたCB250EX。まだブレーキは前後ともドラム式でした)

(二連メーターで左が速度計で、右がタコメーターでした)


 ある日、高校から帰ってきたらバイクが庭先に置いてあり、もちろん中古でしたが、そのバイクがホンダのCB250エクスポートという原付免許では乗れない車種だったのです。


 私の父親の時代では自動二輪も原付同様に簡単に免許が取れていたようで、父も通勤にバイクを使っていましたが、自動二輪も乗れる免許だったため、お店の人がまさか無免許の高校生が乗るために買うとは思わなかったようです。


 当時の熊本は、まだ若者のバイク事故や暴走族などの迷惑行為はそこまで社会問題化しておらず、原付はもちろんのこと自動二輪への乗車時もヘルメットなどを被らなくても違反にならないというのんびりした時期でした。


 その数年後からバイクを巡る環境が厳しくなって行ったのですが、当時はまだそこまでなく、今では考えられないような時代だったのです。
 さすがに無免許でバイクに乗るわけにはいかず、隣家に住む1歳上の中学校の先輩が自動二輪の免許を持っていたので、その彼に頼み、バイクの後ろに乗って近くの寂れた公園で乗り方を教わりました。


 最初に戸惑ったのが、ハンドルの左にあるクラッチのつなぎ方で、右手のアクセルで上手くエンジン回転を上げて繋ぐのですが、初めての経験なのでエンストばかりしていました。
 CB250の車体はそれなりに重く、当時50㎏ほどの細身の私はその取扱いにも難儀していました。
 本来なら自動車学校に通って練習し、その後に実地試験を受けに行くことが当時でも一般的な免許取得の方法でしたが、無免許で練習して、ぶっつけ本番で実地試験を受けることにしたのです。


 当時の自動二輪の実地試験は、125㏄の実用バイクを使っていて、その変速方式は「ロータリー式」でした。
 CB250などのスポーツバイクは「リターン式」を採用してあり、ロータリー式のバイクに乗ったことはなかったのですが、物は試しとばかりに文化祭の代休日に同級生3人と実地試験に臨みました。


 自動二輪の検定試験では検査のコースルートが4種類あり、その中から当日朝に1つのルートが発表され、その道順を間違うと検定は即中止になるという厳しいもので、歩いてコースを記憶することが重要で、発表後は何人もの受検者がコース内をルート図片手に歩き回っていました。


 さすがに最初の検定では、出発でエンストしてスタートさえもできず、高い場所からマイクで検査官から「はい終わり!」と検定終了を告げられました。
 最初の試験に失敗し、その後は自宅の庭でクラッチの繋ぎ方を練習し、翌週になって再び学校をサボってチャレンジしましたが、2回目はコース完走はできたものの、やはり不合格でした。


 このままではバイクに乗れないと思い、2日連続して学校をサボって植木の免許センターに通い、たまたまこの日は初日と同じコースルートになっていたことが幸いし、どうにか合格することができました。


 免許取得後はそれまでの自転車通学からバイク通学に変更しましたが、高校では通学許可を取っていないバイクでも、10円?程度を払えば自転車小屋のおじさんが預かってくれていたのです。
 今では考えられないような話ですが、昭和46年頃はそのような時代でした。


 しかし、さすがに高校では翌年から無許可のバイクは構内乗り入れは禁止になってしまい、東側に隣接する熊本大学の体育館軒下にバイクを止め、そこから歩いて通学するようにしていましたが、特にそれを咎められるようなこともありませんでした。


 高校は進学校でしたが、比較的自由な校風の学校で、同級生も自動二輪の免許をかなり持っていて、そんな仲間とツーリングで阿蘇の山道を走ったり、春休みなどは2泊3日程度のバイク旅に行ったりしていました。


 結局、そのバイクは高校2年間、予備校1年間、県外の大学での2年間の合計5年は使用しましたが、その後は下宿の横の空き地に放置していて、卒業後に熊本に帰る際に知り合いになっていた自動車整備工場のおじさんに処分を依頼してナンバーだけ持って帰ってきました。


 免許センターの実地試験の会場入り口で、もう50年も前になることを思い出す日になりました。