三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

真冬のラウンド

 今日は阿蘇ハイランドの早朝枠を「アプローチの達人」が予約し、私を同伴者登録してあったため、まだ暗い中を阿蘇まで行ってきました。


 今日の天気予報では穏やかな晴れ間が広がり、気温は16℃ほどまで上がり暖かいとありましたが、それは早朝の阿蘇には当てはまらず、ゴルフ場の駐車場に着いた6時40分頃は零下2℃ほどで、その後の夜明け頃には-3℃ほどまで下がります。

 練習グリーンでスタート前に確かめた際には、表面は凍った粒で白くなっていたものの、その下の芝は硬くなく表面だけが凍っているだけのグリーンでしたが、さすがに-3℃になる冷え込みで、2番グリーンからは凍り付いてしまっていました。

(1番ホール横の練習グリーンは表面だけ凍っている感じでした)

(温泉施設の湯を貯める槽から、暖かそうな湯気が立ち上がっていました)

(1番はコース全体が白く凍り付いていました。こんな日でもカート乗り入れ可だったので助かりました)


 カートに乗せていた達人のペットボトルのお茶が凍り気味になっていたほどで、「こんな寒い中をご苦労なことだ」と自嘲しながらのラウンドになりました。


 1番パー4こそ残り50yのセカンドショットはピン奥に転びましたが、大きく跳ねた感はなく大丈夫そうでしたが、2番パー4のセカンドはピンに向かっていたもののグリーン上で大きく跳ね上がり、危うく3番コースまで行ってしまうほどのオーバーでした。


 そのことがあって3番パー4では先に打った達人の球が手前から跳ねて届かないと思ったものがグリーンオンしたため、私も手前の花道を狙うと逆に1mも跳ねずに止まってしまいます。


 そんなこんなで大変でしたが、今日はパットが決まり大叩きせずに前半のスコアが纏まります。

(9番パー5に来てもコースは白く凍っていましたが、太陽が昇ってきて日が当たるようになると、陽にあたる場所は徐々に溶け始めます)


(10番横の楓?の木に太陽光が当たって奇麗でしたが、写真ではそこまで奇麗に映っていませんでした)


 後半になると太陽からの日差しでグリーン表面の氷は解けたものの、内部の凍結は依然残っていて、見た目とのギャップに苦しめられます。
 特に14番からはカップ切りの係員を追い越し、昨日のピン位置のままになってしまい、カートにあるナビのピン情報とは違ったため、オーバー目に打って硬いグリーンで跳ねられてしまうことになってしまいました。


 9時過ぎにスタート室横に戻ってきましたが、きっと10時頃からのスタートだったら暖かく問題ないラウンドができただろうなと思いましたが、そうなると進行が遅くなるため精神衛生上は悪く、少々の悪条件でもそれを楽しむほうが良いと思っています。


 明日は、LPGAの女子選手4人によるRKKスキンズマッチがこの阿蘇ハイランドのコースであるため、我々のラウンドはお休みです。
 1番から7番までアウトコースを使い、8番からインの17番・18番を使う9ホールで実施され、今年は熊本出身の大里桃子に竹田麗央、それに吉川桃などが出場するようですが、私は見に行くことはありません。
 来年1月にRKKで放送されるはずで、見逃してもTVerでしばらくは配信されるから、そちらを見るようにしています。


 明日も早朝は寒いだろうけど、日中は阿蘇でも気温が上がるため、きっと好勝負が見られることでしょう。

男子マラソンを見て思う

 今日も熊本は朝から晴で、気温もそこまで下がらず日中は15℃ほどと過ごしやすい一日になりました。


 冬の風物詩がマラソンのTV中継ですが、今日は午前中に防府読売マラソンがあり、午後からは福岡国際マラソンの中継があっています。
 防府読売マラソンでは、ベテランの川内優輝が2時間8分32秒で5度目のマラソン優勝を果たしました。

(この画像はPower DirectorのAI生成を使って作った画像です。意味不明な文字になっていますが、AIへの指示は「トップを争う2人のマラソン男子選手」的なことを入力しました)


 私の感覚では、男子マラソンの8分台は一流選手の証だと思っていましたが、日本記録を調べてみると既に2時間4分56秒(鈴木健吾:2021年びわ湖毎日マラソン)と5分の壁を破っていて、今回の川内優輝の記録は、1983年の東京国際マラソンで瀬古利彦が出した2時間8分38秒と同レベルであり、40年前だったら一躍ヒーローだったのにと思ってしまいます。


 なぜ私の感覚が40年間も遅れていたかというと、その当時は宗兄弟・瀬古・中山竹通など世界で活躍していた選手が多かったものの、1986年の北京マラソンで児玉泰介が出した2時間7分35秒の日本記録がその後13年間も破られなかった暗黒時代があったのです。


 記録が出ないということはヒーローもいなかったということで、私の中ではマラソンへの興味が世間同様に低くなり、都道府県対抗女子駅伝や高校駅伝に興味が移ってしまいました。
 13年間破られなかった児玉泰介の日本記録を破ったのが、1999年のベルリンマラソンで出した2時間6分57秒という犬伏孝行の記録ですが、マラソン自体に興味が無くなっていた私には、失礼ながらこの犬伏選手の顔が浮かぶところか名前さえ知らなかったのです。


 翌2000年に福岡国際で藤田敦史が2時間6分51秒で日本記録を更新し、2002年にはシカゴマラソンで高岡寿成が2時間6分16秒で記録更新していますが、高岡選手の名前だけは何となく記憶にある程度で、やはりマラソン自体に興味が無かったことが分かります。


 本来はここで再び40年前のように男子マラソンに興味を戻るはずでしたが、やっと記録が更新される時期になったはずなのに、なんとこの後にまた16年間という長い空白の時間が生まれてしまいます。


 たぶん、世の中も私同様に男子マラソンに興味が無くなり、マラソンといえば女子マラソンという昨今のプロゴルフ界と同様な流れになっていたはずです。


 女子では、2000年に高橋尚子がシドニーオリンピックで2時間23分14秒の五輪最高記録で圧勝し、一躍時の人になっています。
 高橋は翌2001年に、ベルリンマラソンで2時間19分46秒の当時の女子マラソン世界最高記録を出して女性ランナーとして世界で初めて2時間20分を突破しました。


 また2004年のアテネオリンピックでは野口みずきが2時間26分20秒で優勝と、マラソンの話題は完全に女子に変わってしまい、男子が2018年まで記録更新できていない中でマラソンといえば女子という図式になってしまいます。


 こうして振り返れば、日本のプロゴルフ界と同様な流れであり、ANOの時代から人気が高かった男子プロゴルフ界は、その後も次々にスター選手が生まれました。
 その筆頭ともいえるのが、2007年に行われたマンシングウェアオープン KSBカップにアマチュア枠でツアー初出場した石川遼で、この試合で史上最年少優勝を果たしたことで人気が沸騰しましたが、その後の男子プロゴルフ界はスター選手の不在という状況に陥り、バブル崩壊も手伝って徐々にジリ貧に陥ってしまいます。


 女子プロは隆盛の男子プロの陰に隠れて長年日が当たらない存在でしたが、それを打破したのが2003年9月に行われたミヤギテレビ杯ダンロップ女子オープンゴルフトーナメントに高校3年生のアマチュアとして出場し優勝した宮里藍で、彼女のおかげで一気に女子プロゴルフに脚光が浴びるようになり、その後の彼女に憧れた若手の参入でスターが次々と生まれて、あっという間に男子と立場を逆転してしまいます。

(これもAIが作成した画像。指示通りに作ってくれず、使えるのはこれくらいでした)


 宮里藍は、2005年に行われたワールドカップ女子ゴルフで北田瑠衣とペアを組んで優勝し、2006年からアメリカツアーに専念しましたが、宮里藍がいなくなっても彼女に憧れた若手が次々に参戦するという女子プロゴルフ界は好循環の流れに入りました。


 なぜ男子プロと女子プロの人気が逆転したかを考えてみると、石川遼はアメリカツアーに参戦しましたが結果が出せず、対して宮里藍はアメリカツアーで結果を出したため、世間の認識が女子は世界に通用しても男子は通用しないことが分かってしまったことです。
 これはマラソンと同じことであり、結局は世間の目は世界で戦って勝利することを求めているのです。


 昨今はネットや有料テレビで世界のレベルの高い中継はいくらでも見ることができ、以前は国内で威張っていても許されたことが、世界では通用しない男子ゴルフのレベルを知っている視聴者からは逆に鼻白むようになっただけということです。


 昨年は世界に出て行った男子選手を(その行った経緯は別として)寄ってたかって非難するような風潮があったのも事実で、国内男子プロゴルフ界が未だに井の中の蛙状態であることを露呈しています。
 対して女子ゴルフ界は、多数の人気選手がアメリカツアーに挑戦している状況で、やはりスポーツは世界に通用しないレベルでは話にならないのです。


 これは女子プロも同様であり、現在は世界に挑戦する女子プロが多いからまだ人気を保っていますが、これが国内だけでいいという考えになってしまえば男子プロの二の舞になるだけです。
 アメリカツアーで活躍しているのは男子プロでは国内ツアー出身でない松山英樹くらいという状況も寂しいもので、その点からいっても今年欧州ツアーの最終戦で優勝した21歳の久常涼のような選手がもっとたくさん出てくることを期待しています。


 プロスポーツは勝利が求められるもので、高度な技術と併せてチャレンジ精神が無ければ、すぐに世間の目は離れてしまうシビアな世界なのです。

回復ドライブ

  今日の熊本は朝から穏やかな晴れ間が続いていて、気温も13℃ほどと冬にしては過ごしやすい日になっています。


 今日は土曜日なのでラウンドは当然なく、12月の最初のラウンドは4日の月曜日を予定していますが、阿蘇ハイランドでは5日に恒例の女子プロのスキンズマッチが行われるため、その日の予約が取れずに当初は予定していなかった4日を急遽入れたものです。


 さて、最近はパソコンについて興味を持っていろいろ触ってみていますが、BTOパソコンの回復ドライブをUSBメモリに作ろうと思い、ネットで4本セットのKioxia製を購入しました。
 同じショップで同じKioxia製、同じ容量32GBの4本組なのに、金額が違っていたのでよく確かめると、安価な方は規格がUSB2.0で少し金額が高い方がUSB3.2 Gen1とあり、2.0より3.0のほうがいいかもと単純に思ってそちらを注文しました。


 私のUSBについての知識は、2.0(転送速度480Mbps)より高速になったのが3.0(転送速度5Gbps)で、差し込み口が3.0はブルー系になっているという程度でした。
 この商品に記載されている「3.2 Gen1」って何?と思い、USBにも世代があるのかと調べてみました。


 すると、USB3.0は中身は変わらないのに「3.1 Gen1」に呼称が変わり、それがまた「 3.2 Gen1」に変わったようで、まるで出世魚のようなものでした。
 この名称変更は、3.0の後に出てきたより高速な転送速度10Gbpsや20Gbpsのものとの整合性を持たせるためのものですが、同じ転送速度なのに名称に流行りの「Gen」が付くと性能が上がったように錯覚しそうです。


 私の購入品はGen 1なので以前の3.0と同等品で転送速度は5Gbpsだと分かり、もっと高速な商品なのかなとの期待が外れてしまいますが、1個500円台の価格だったので文句は言えません。


 このUSBメモリを使って回復ドライブを作ることにしましたが、最初に練習台として手近にあったAMDノートで試してみることにしました。
 このAMDパソコンも回復ドライブは作っていなかったためで、必要性はこれまで感じていなかったけど、USBメモリが4本もあるので作っていても損はないと思ったのです。


 しかし、簡単に作れるはずと思ったのに、最初に出てきたのが「このPCでは回復ドライブを作成できません」というエラーメッセージでした。


 別室のBTOパソコンでもやってみましたが、こちらは問題なく回復ドライブの作成が終了したので、なぜAMDノートができないか調べてみました。
 ネットの記事にはいろんな理由が書いてあり、その1つにクローン化などの作業を行った場合、コピーすべきファイルがコピーできておらずエラーになるとあり、確かにAMDノートはクローンで起動ディスクを2回は変更していたため、それが原因なのかもと予想しました。


 ただ、その対処法に沿ってやろうとしましたが、こちらでもエラーになってしまい、時間をかけて対応することに無駄かもと思ってしまいました。


 それは、AMDノートに回復ドライブを作っていなかった理由がクローン化した元のM.2 SSDをバックアップ用に保管しているからで、よく考えればトラブったときはSSDを入れ替えればOKだと思ったのです。


 よく分からないままWindowsではなく、コマンドプロンプトを使ってその下のシステムを触って壊してしまえばと心配したからで、必要になったときに調べるという先送りをしてしまいます。


 とにかくパソコンはトラブってしまうと連鎖的にいろんな不具合がでてくるもので、よほど詳しくないまま安易に基本システムの書き換えなどを行ってしまうと元に戻せなくなるかもと心配しました。
 壊しても良いパソコンだったらやってみますが、さすがにサブ機になるAMDノートを壊すわけにも行かず、そのうちに再生したFMVでやってみようとは思っていますが、急ぐものでもないため、この先どうなるかは分かりません。