三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

母が逝く

 今日の熊本は朝から雨模様で、昨日のうちから今日の阿蘇ハイランドの早朝ラウンドは中止にしています。
 中止にした理由は雨ですが、もう一つ私には理由があり、施設に入所している母の容態が悪くなり、月曜日から個室に移されていたことです。


 同伴者の「アプローチの達人」にもほぼ同年齢の母上がいるため、私が個室に移ったと言ったら「明日明後日がヤマかな?」と言っていて、天候を確認することもなくゴルフ場にキャンセルを申し出てくれました。


 月曜日に母の見舞いに行き、その時はベットの右に立つと右の方を逆に立つとそちらを向くように何らかの反応はあっていましたが、声を発することはなく95歳という高齢でもあり、個室に移ったということは施設側がもう残り少ない命だと判断したからで、施設の医師からも「老衰です」と告げられていました。


 個室に移ってそれまでの月2回という面会制限がなくなり、火曜日は私の娘も含めて最後のお見舞いに孫たちが行きましたが、一昨日から再び面会制限が始まり、血圧の数値が下がっているとの情報が施設側から伝えられていました。


 昨日の夜0時前に施設側から兄に「チアノーゼが見られる」と連絡があり、施設に来るように求められ、兄が私の車に、別に兄嫁を乗せた車を兄の長男が運転して施設に向かいました。


 ベッドで寝ている母は口を開けて呼吸が荒いような感じでしたが、施設の職員によると血圧も40台と低く、意識がないため私は今晩中がヤマだと感じました。
 兄嫁と兄の長男は、明日の仕事の関係でお見舞いして声をかけてから帰って行きましたが、兄と私はベットの足元にある椅子に座って雑談していました。


 すると徐々に母の呼吸の強弱が分かるようになり、弱弱しい時間が多くなったように聞こえて来ます。
 それまで開けていた口を時々閉じるような仕草が見られ、なんとなく終わりに近づいている雰囲気が感じ始めました。


 その時はあっけなくやって来て、兄と私が注目する中、徐々に母の呼吸の音が小さくなり最後は聞こえなくなりましたが、担当者を呼ぶまでもなく1人が部屋に入って来て「モニターで呼吸が止まりました」と言い、聴診器を胸に当てて確認し「心臓が停止しています」と告げられます。


 兄が母に向けて名前を呼びかけると不思議なことに呼吸が再開したように聞こえ、私が「息を吹き返した」と言いましたが、どうやらこれは死亡直後に起こる反応のようで、この話を枕経にきた僧侶に話すと「私の妻もそうでした」と言われ、珍しいことではないことが分かります。


 その後、医師から死亡宣告をしてもらうためにしばらく別室で医師の到着を待ちますが、その間に担当の方が点滴の針を抜いたりなどの処置を行ったようです。
 もう一度、部屋に入るように呼ばれ行くと、医師が形ばかりの確認作業を行っていて、「ご臨終です。死亡時刻は1時20分です」と医師自身はまだ到着していない時間を告げられましたが、その時間は私も確認していて、私と兄の2人だけで母を看取ったことになりました。


 当初は施設が「看取りサービス」を謳う施設でもあり、水曜から面会宣言になったときからもう最期は近いと覚悟していましたが、その場合も「逝去されました」と死亡の連絡だけを受け取るのだろうと思っていました。
 その意味では、最期の場に立ち会えたことは良かったと思い、苦しむ様子もなく眠るように逝った母を見て、天寿を全うできたのだろうと思いました。


 ただ大変だったのがその後で、施設では死亡後は預かれないので葬儀社に依頼するか自宅に連れ帰るかしてくださいと言われ、慌てて近場の葬儀社をネットで検索し電話をかけました。


 希望する近場の葬儀用会館は金曜日が既に葬儀が3件入っていて無理だと言われ、1日伸ばして3月1日金曜日に通夜、2日の昼前に葬儀と決めたのは遠方からやってくる姉たちのことを考えてのことです。


 ただ結局は自分たちのためでもあったと後で分かりますが、それは葬儀場の担当者が遺体を3時に引き取りに来て、私と兄は母を乗せた車の後をついて同じ系列の別の葬儀場に行き「仮安置」ということになり、その後は葬儀の打ち合わせが朝の5時近くまで続いたので2人共に徹夜になったからです。


 7時過ぎにはお寺に電話して僧侶の都合を聞き、その結果で通夜と葬儀の開始時間が決まり、斎場での火葬の予約も先着順なので葬儀場側が予定の時間を抑えます。
 それと並行して、お礼状の文言を作るために母のことを電話インタビューされる時間が朝のうちに指定され、喪主になる兄は帰ってからも仮眠さえ取れない状況になってしまいます。


 本来は仮安置所で「湯灌」という作業が9時から行われ、2016年の父の「湯灌」の際は立ち会っていましたが、さすがにこちらも立ち会うには離れた仮安置所まで行くことになるため、葬儀社側に不在でもいいかを確認し、依頼しています。


 私は母の遺影用の写真担当ですが、すでにこの写真を使おうと決めていて、それとは別に動画編集ソフトで母の若い頃の写真から近況までをスライドショーにする動画を作成していましたが、ノートパソコンが不調でストレージを交換した際に、確認しないまま換装していて、「仮」で作った動画自体は残っていますが、その内容を編集する作業用の画面がどこにも残っておらず、間違って消去したことが分かります。


 いろいろファイルやフォルダの中を探しましたが見つからず、そのため最初から作り直す羽目になってしまいます。
 母は戦前の生まれなので、写真自体が少なく、前回は使わなかった画像を修正してカラー化したりと私が練習した動画編集の方法で新しいものを作っています。


 そんなこんなで昨晩から慌ただしい夜になりましたが、兄と2人でそれぞれ分担業務を決めて進めていきますが、私は動画が作れるかが微妙で、写真の年代順に並べるだけでも大変で、兄からも適当でいいからと言われていますが、作る側からすればそんなわけにはいかないのが本音です。


 今日のチャオ。雨でぬれた芝生は苦手なようで、すぐに家の中へ入りたそうです)