三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

レジェンドの現在

 今日は4月1日なので新年度が始まる日で、在職中は年度替りで一番ドタバタする日でした。
 朝から新転任の職員がやって来るし、まず辞令交付式を行い、そのまま新転任者紹介に続く定例の朝会の後に新メンバーでの運営委員会を経て職員会議と進み、その後は分掌毎の会議と立て続けに会議が開催される日でした。


 年によっては三役のうち2人が交代することもあり、そうなるとてんてこ舞いになってしまい、まさしく一年で一番長い日になっていました。


 そんな思い出も既に遠い過去のことになってしまいましたが、先日のLPGAステップアップツアーのラシンク・ニンジニア/RKBレディースの2日目にスコアラーで付いた組の中にまさしく遠い過去を思い出すようなメンバーがいました。


 朝の抽選で引いた籤は31番で、第一希望の2番(小橋プロがいる組)や早い組のスタートではなく、抽選が6時45分にありましたが、スタートは10時と3時間以上も待つ羽目になってしまいます。
 たまたま隣に2番籤を引いた人がいて、無理だとは思いましたが「交代は無理ですよね?」と尋ねると「何番?」と尋ねられ「31番」と答えると「ゴメン、無理だわ」と言われてしまいます。


 アウト・インに分かれ計36組がスタートするため、1組~9組と19組~28組が前半のスタートになり、遠くから来たボランティアは早く終わる組もしくは人気がある選手がいる組を希望するものです。
 そのため31番を引いた時点で交代するためには不利な番号であり、その組に人気選手がいればまだしも組み合わせ表を見ると「高橋美保子・木佐貫めぐみ・小楠梨紗」の3人で、小楠プロだけは分かりましたが、後の2人は「?」という印象でした。


 ただ高橋プロの名前にはなんとなく「若手の実力者」という印象がありましたが、10番ティーにやって来たのは、かなり年配の小柄なおばちゃんという感じの女性でした。
 そのため、私がイメージしていた高橋プロとは違うと思い込み、もう1人の木佐貫プロもベテラン風で、高橋プロより先輩のようだったので内心では正直「外れ」だと思っていました。


 3人共初日に79というスコアだったもので、2日目にインの後半スタートだということは成績順で組み合わせになる2日間大会では、ほぼ予選通過も厳しい位置です。


 スタートの10番パー4では木佐貫・小楠プロは1打目をフェアウェーに運び、2オン2パットのパースタートでしたが、高橋プロは左ラフからグリーン右手前のラフにショートし、そこからアプローチを失敗して4オン1パットのボギー発進でした。


 続く11番パー4でも木佐貫・小楠両プロが2オン2パットのパーに対し、高橋プロはグリーン右に外し、ここもそんなに難しいアプローチではなさそうだったのに、簡単にボギーにしています。


 12番パー5こそ3オン2パットの初パーになりましたが、13番パー3でもアプローチが寄らずにボギー、15番パー5では4打目を奥に打ちこんでアプローチをまさかのチャックリでダボになってしまいます。


 見ていて、高橋プロはパーオンできればパーが取れますが、グリーンを外すとボギーになる確率が多く、アプローチイップスかなと思ったものでした。
 結局、高橋プロの前半はスコア43となり、パット数は14パットだったため、グリーンを狙うショットやアプローチが良くなかったことが分かります。

(2R目は10番からのスタートです)


 プロに対して失礼な話しですが、見ていて当初はアマチュアかなと思ったほどで、まさかレジェンドだったとは露とも思いませんでした。
 私が高橋プロの名前に若手の実力者だと感じた記憶は間違いではなく、ただそれは20年以上も前の記憶だったのです。


 高橋プロは1977年生まれの46歳ですが、2000年の22歳の時にプロテストに合格し、2001年の7月に初参戦のツアーでいきなりトップ10入りし、後半のみの参戦でしたが見事シード権を獲得して、その年のLPGA新人賞と日本プロスポーツ新人賞を獲得している選手でした。
 翌2002年にはツアー優勝2回・2003年にもツアー優勝1回を果たし、生涯獲得賞金額は1億6千万円近くになる当時のトッププロだったのです。
 その頃の優勝賞金は1千万円前後であり、今の賞金額とは違ってかなり少ないため、数年間で積み上げたこの獲得額は、それなりに評価できるものです。


 ちなみに2002年の賞金女王は不動裕理プロの9,569万円で、高橋プロは4,360万円を積み上げ堂々9位にランクインしています。
 高橋プロが初優勝したミヤギテレビダンロップ杯は、翌年に宮里藍さんが高校生でアマチュア優勝し、その後の女子プロ人気に繋がる大会でした。


 どおりで私の「高橋美保子」という名前に対するイメージが「若手の実力者」だった理由が、この頃に活躍していた記憶だったわけですが、その後に表舞台から姿を消してしまっていたので、そのまま当時の記憶として残っていたのです。


 実質的な活動時期は2001年~2008年までの8年間で、その後は獲得賞金額が数十万円と激減していて、2013年からはずっと「0円」になっていました。


 ある記事にはスイング時のループに悩んだとありますが、私の見た感じではアプローチイップスではと思うもので、10番も11番も3打目はそこまで難しい場所とは見えず、グリーン周りの短く刈った部分で比較的ライも良い場所でしたが、インスタートの10番パー4ではグリーン右手前の20mからピンに寄せるどころかグリーンにも乗せられないものでした。

             

 初日の79というスコアも、スタートの1番パー4でセカンドショットが直接カップインするラッキーなイーグルがあったため、実質は9オーバーというもので、結局2日間でバーディーは1つもなく2日目も83というスコアで終っています。


 プロはアプローチは誰でも間違いなく上手いもので、上手くなければプロとして戦っていけませんが、その大事なアプローチを上手く打てなくなるのがアプローチイップスです。


 予想するに、プロ入りしたての頃は怖いものもなく勢いで戦っていましたが、それなりの地位になると周りからフォームに対して「あ~だこ~だ」と指摘されることになり、真面目にそれを修正しようとしてイップスという深い沼にはまり込んでしまったのでしょう。


 ときおりは20年前当時は得意だったというドライバーショットが他の2人よりも飛んでいましたが、いかんせんセカンドでグリーンを捉えることが少なく、いわゆる「ボギーなゴルフ」状態でしたが、アマチュアだったら問題なくてもプロだったらパットが決まらなければ上位には行けないものです。


 実績がないプロならともかく華やかな表舞台に立ってたトッププロが、円熟味を帯びたゴルフを見せてくれるならまだしも、アマチュアゴルファーじゃ?と思わせるような内容のゴルフしかできない現状では、本人も辛いのではと思ったラウンドでした。