三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

ゴルフは私には合わないスポーツ

 今日の熊本は朝は寒かったけど日中は晴れ間になり、気温も正午現在15℃と冬にしては過ごしやすい気候になっていましたが、午後14時頃からは曇ってしまい肌寒くなりました。


 さて、先週の金曜日に阿蘇ハイランドGCでラウンドしましたが、7番で凡ミスをしてスコアを崩してしまいました。
 その原因は、同伴者の「アプローチの達人」の動きに意識が行ってしまい、自分のプレーに集中できなかったからです。
 そうはいっても達人が悪かったわけでなく、私が無用な気を使いすぎたことがその原因で、ゴルフが他の競技とは違い、同伴者の動きに気を使う必要があるという特殊なスポーツになるからです。


 私は学生時代は卓球競技に熱中していて、社会人になってからソフトボールとテニスにも熱心に取り組んでいました。
 例えば、卓球やテニスなどのネットを挟んで対戦するゲームを考えれば「サービス」というラリー開始の合図があり、それがあって初めてプレーが始まるもので、相手が準備してないうちにサーブを行ってもそれは無効になります。


 ソフトボールや野球にしても、投手は相手が打席に入り打つ準備が出来てから投球するもので、これも相手の準備が出来ていないうちに投げると無効になってしまいます。
 つまり、球技では対戦相手との「呼吸」が一致してゲームが始まるもので、サーブや投球を行う側も受ける側も相手の呼吸に合わせて準備することになります。


 また剣道や柔道などでは審判がいて、「始め!」の合図で対戦が始まりますが、ゴルフだけは自分のプレーを始めようとしても同伴者の動きで思うように始められないケースが多く、他の競技と比べるとかなり特殊なものになってしまいます。


 さきほどの私の7番のシチュエーションを再現すると、7番パー4のセカンド地点からグリーンに向かう際に、いつもだったら私が後にセカンドショットを打つことが多かったのですが、偶々このときは当たりが悪くて先に打ち、そのためカートの運転をすることになったことが始まりです。


 2人共にセカンドショットをグリーン手前にショートし、達人の方が遠いため先にプレーに入りましたが、カートを停めて私が自分の球の位置に行くにはプレーする達人の後方を横切る必要があったため、いったん達人の背中側で待機し、達人のプレー後に自分の球に近寄りました。

 達人はアプローチが寄ると先に打つことが多く、この時もそうなりそうでしたが、私の状況を見て、プレーの邪魔にならないようタイミングを計っていたように感じました。
 もし私がもたついていたら先にカップインするし、私がプレーに入りそうならカップに近づかずに待つことは達人クラスのゴルファーなら当然に判断できることです。


 この時点で私はそれが分かっていて、待ってくれた達人を待たせては悪いという思いが優先してしまい、自分のプレーに集中することなく慌て気味に3打目のアプローチをして、結果トップのミスをしてしまったのです。
 達人だったら、私がプレーする素振りを見せると邪魔にならないような場所で待ってくれますが、私は私で無用に気を使ってしまったものでした。


 ゴルフでは通常は4人でのプレーになり、ティーでは順番に打つために自分のタイミングで打てますし、セカンドでも広いコースなのでそこまで同伴者が邪魔になることはありませんが、グリーンだけはどうしても同伴者の動きで影響を受けやすくなります。


 これは私の偏見的意見ですが、ゴルフが「強い」(「上手い」ではない)選手は、人間としてのある部分の「心」を無くしているのかもしれません。
 それは、「思いやり」という部分ですが、他者を気にするようではツアーでは勝てず、スロープレーと叩かれても平気で時間をたっぷり取るようなトッププレーヤーもいます。


 そこはある意味「傲慢」とか「我儘」などと言われそうな部分ですが、私もトッププレーヤーの醜い場面に出会ったことがあります。
 同伴者がトラブル時にスコアラーの私に「今、球を動かしましたよね?」と言ってきて私が「いいえ」と答えると不満そうにプイと頬を膨らませた姿でしたが、相手のスコアロスを期待していたかのような心境が垣間見えました。


 これはゴルフが金銭絡みになった弊害だと思っていて、相手を蹴落としてまで自分が這い上がるという意識が無いと厳しい競争など勝ち抜けないし、人の好い性格ではプロとしてやっていけないはずです。
 つまり強いゴルファーほど「思いやり」などの人に必要な気持ちを失くさなければならず、プレーだけ見れば素晴らしいタイガーでさえも私生活では人間失格なことを繰り返したことからも、人としての大事な部分が欠落していたのでしょう。


 「自分だけは」とかの特権意識が生まれると人間はそうなりがちで、単に生産性など皆無のゴルフが少しくらい上手いというだけで、大金が得られるプロという制度がこうした弊害を生んでいるもので、やはり崇高なゴルフというゲームにお金を絡ませたことが間違いの始まりだと思っています。


 そもそも「プロ」自体は当初は卑しい職業だったわけで、先人たちの涙ぐましい努力のおかげで今の地位まで昇り詰めましたが、本質は変わっておらず、人間としてどうなの?と思える人物が幅を利かせているのが現実なのかもしれません。


 「人間やめますか?」「それでもゴルフが強くなりたいですか?」という究極の選択を求められ、前者を(結果的に)選ばなかった人間性のある多くの無名プロに私は何か共感をより感じるようになりました。
 お金を稼ぐためにプロになったのだから、その賞金の額で評価が決まるという点は仕方ないものの、「賞金が多い=人間性あり」ではなく、人としての評価ではないはずです。


 昨今は人に迷惑をかけても稼げれば勝ちという輩が多く、犯罪すれすれのグレーな商売で金儲けにいそしむ層も多くなりましたが、いつかは天罰が落ちるもので、労働は世の中に役立つことが本来の姿(見えざる手=アダムスミスの国富論)なのに、「濡れ手で粟」的なことで大金が得られることが道理なはずはありません。


 盛者必衰は世の習わしであり、「見えざる手」で導かれた職業でなければいつかは落ち目になるもので、徐々にその将来も見え始めています。
 金儲けの手段と化したゴルフを、どうにかして本来の姿に戻すことがこれから求められて行くのでしょう。