三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

スコアは平均に収束なのか

 今日は阿蘇ハイランドの早朝枠を私が予約し「アプローチの達人」を同伴者登録してあったので、早朝から阿蘇に向かいました。
 最近の熊本は日中は半袖で過ごせますが、ゴルフ場に着いた際の気温は6℃しかなく慌てて上衣を引っ張り出す有様でした。 

 気温が低かったのは放射冷却が起こったからのようで、今日の阿蘇地方は快晴の朝でした。


 今週は水曜日に亡き母の四十九日があったため、当初の予約をキャンセルしていましたが達人は「1人予約」でここ阿蘇ハイランドへ来たそうです。
 ただ4バッグだったようですが、時間がかかることに疲れたと言っていて、最近は距離計で球の位置まで行って計測し、それからクラブを取りに来るというゴルファーが多く、無駄な時間ばかり使ってしまうようです。


 火曜日のラウンドの際にグリーンに砂撒きがあっていましたが、その砂がまだ沈み切らず球の表面にくっつき、パットの際にそのままではいろんな悪さをしてしまいます。


 1番パー4のパーパットがそれで、横着して球を拾い上げて拭かなかったため、綺麗にヒットせず短いパットを外しています。

(1番パー4の1打目は画像では見えませんが残り80yほどの右ラフに飛んでいました)


 結果的には、この避けられたかもしれない1打で80切り出来なかったことになり、毎回のように似たようなスコアになるのは、どこかで何度かポカをしてしまうためのようです。



 今日は右脚前で振るスイングはせず以前のスイングに戻しましたが、その理由はチーピンが出ることと併せ、どうしても右側で我慢すると身体に負担がかかるためです。
 ゴルフのスイングは身体的には無理をしがちですが、いくら良いスイングと言われてもそれは身体的には真逆のはずで、誰がどう見ても「良いスイング=身体に悪いスイング」だと私は思っています。


 これまで左足踵回転打法や、右足前出し打法、片手打ち打法などいろいろ試していますが、身体に負担をかけなければ飛距離は大きく望めないように感じています。
 ショットの安定性は、そもそもどんな打ち方をしても安定する自体は望み薄で、それには練習量が重要な要素だと思っていて、私は練習は全くしないためショットの正確性は望めません。

(2番パー4は奥へ零した達人と、私の球はバーディーチャンスでしたが決めきれません。砂が多量に入ったグリーンは白っぽく見えます)

(10番パー4のフロントティーへプレーのため向かう達人。快晴の空になりました)


 つまり私のレベルでは、慣れた阿蘇ハイランドのコースであってもスコア自体は何度もラウンドすると平均スコアに収束するもので、スコアを伸ばすためには達人のように寄せの精度を上げるしか方法はなさそうです。


 スコア表には出ませんが、1パットの場合の寄せはほとんどパターもしくは9鉄の転がしになり、ウエッジで球を上げる寄せは前後と左右のどちらかがイマイチで、後はパット次第になりがちです。
 そのためパットの出来不出来で10打くらいは簡単に変動するもので、パットの負担を減らすためにはOK位置に寄せたいものです。


 今日のチャオ。オシッコの様子を撮影しました。

久しぶりに法務局へ行く

 今日の熊本は曇り空が広がってあまり天気は良さげではないようですが、予報ではこれから晴になるようで、朝方だけ少雨になっただけのようです。


 今日は実家の所有権移転登記のために、熊本法務局での事前相談を兄が予約していたので私の車に兄を乗せて一緒に着いて行きました。
 この法務局は10年ほど前に当時勤務していた高校の職員の給与差し押さえ関連で、毎月の給料日に半年間ほど供託に行っていた場所です。


 この時は裁判所から差し押さえの通知が来て、驚いて当該職員からすぐに話を聞きましたが、差し押さえになった経緯自体は褒められたものではないものの、その原因自体は心情的には同情できるもので、毎月の給料日に現金を持って供託に通ったこと自体は理由を聞いて納得できたので面倒だとは思いませんでした。


 法務局という役所は一般的には普段は縁がない場所ですが、過去には学校敷地や周辺の字図を取得に行ったりと全く縁がない役所ではなかったため、今回の移転登記は司法書士に依頼せず、兄本人が手続きするよう勧めていました。


 当初は私が兄に変わって手続きに行こうと思っていましたが、そうすると法に違反するとことになり、本人自身か資格のある者つまり司法書士や弁護士などしか代理者になれないため、兄が主体で私は付き添いという形で進めようとは思っていました。
 ただ、既に兄は法務局への相談に1人で行っていて、そこで指示された必要書類等の取得も既に終わっていたので、実状は単に私は運転担当として兄を乗せていくだけという役目になるのです。


 実家は元々は父の名義で、8年前に父が他界した際に当初は同居していた兄が相続する方が良いと私は思っていましたが、まだ母が健在だったため兄は母の心情を慮り、土地は兄名義にしたものの建物は母名義に変更していたのです。


 8年前は登記を司法書士に依頼していましたが、母名義にすると今回のようにまた所有権移転登記が必要になり二度手間で経費の無駄だと私は思っていましたが、自宅に思い入れのあるだろう残された母の心情を考えると、母名義にしたことは良かったと今では思っています。

(所内の撮影が可能か分からず、座って待っていた椅子の前方の案内標識だけ写しました)


 今日の事前相談で大丈夫なら申請を行うつもりで行っていたので、相談後は兄が一式の書類を窓口に提出し、今後は内容のチェックが行われ、不備な箇所があれば連絡があることになりましたが、とりあえず提出まで漕ぎつけホッとしたのは事実で、兄も半分は肩の荷が下りたような感じでした。


 残る手続きは年金の2月分の受領手続きですが、兄は面倒ならそのままでいいと言っていたので、私は「10万円でも大金だから、必要な手続きを取った方が良い」と言っていて、兄も「それもそうだ」と言っていたので年金事務所に行って手続きするはずです。


 今日のチャオ。雨上がりの芝だったためか、何か歩きたくなさそうな動きでした。チャオは濡れた地面は苦手なようです。

今日は亡き母の四十九日法要

 今日の熊本は晴ですが、空にはなんとなく薄曇りのように靄状のものがかかっているので、黄砂の影響があるのかもしれません。
 日本気象協会のtenki.jpの黄砂情報をみると、大量ではないもの西日本には黄砂の影響がある予報なので、この時期はすっきりした青空の天気にはならないようです。


 今日は当初は阿蘇ハイランドの早朝枠を予約していましたが、それは亡き母の四十九日に当たる日を明日だと勘違いしていたからです。
 母は2月29日の未明に95歳で息を引き取りましたが、28日の0時前に入所した施設から兄に「チアノーゼが出ている」と連絡があり、とりあえず私が兄を車に乗せて施設に向かいました。


 この数日前から母は相部屋から個室に移っていましたが、それは医師の診察で「老衰」だと言われ先は長くないとの見立てが出たためで、面会制限がない個室で家族などが最後のお別れに行けるように施設側が配慮してくれたのでしょう。


 その間の母は呼びかけにわずかに反応する程度で、その様子を撮影すると見た目では分からなかったいわゆる「死相」が画像には現れていて、死期が近いことは覚悟していました。
 ただ兄はまだ楽観的で「もうしばらくは大丈夫」だと言っていて、私もそうかもと思って日付が変わった29日はいったんは帰ろうとしたほどです。


 そこで帰らなかった理由はよく覚えていませんが、結局兄と一緒に母の個室で待機していると、最初の1時間ほどは比較的大きな呼吸音が聞こえていましたが、これは「死前喘鳴」と呼ばれる現象だったようです。
 しかし、呼吸音が徐々に弱くなり始め「これは」と思って近くに寄っていると、モニターで気づいた施設の担当者が部屋にやって来て「呼吸が停止しました」と我々に告げ「医師を呼びますのでしばらくお待ちください」と言われ、それから医師の施設到着を待ちました。


 担当者がやって来た際に、母は大きく息を吹き返したような様子が見え私と兄が異口同音に「生き返った」と言いましたが、どうやらそれは死亡直後に起こる「死戦期呼吸」という現象だったようです。
 この話を葬儀などのお願いにいったお寺の住職に話したところ、そのお坊さんも同じ経験をしたと言っていて、ネットで調べると心停止直後に見られるものだとあります。


 医師の診断時は別室で兄と待機しましたが、呼ばれて個室に入り医師から正式に死亡宣告があり、担当者から「遺体は速やかに引き取ってください」と告げられ、ここで慌ててしまいます。
 病院などでは霊安室があるため、すぐにどうこうということではないのでしょうが、母は施設に入所していたため施設には霊安室などの設備は無く、真夜中でも遺族が引き取らなければならないことをそのとき始めて知ったのです。


 施設の人が自宅に連れ帰るか、しれが無理なら葬儀社に連絡すると引き取ってもらえますと教えてくれ、慌てて葬儀社の電話番号を調べ電話すると、向こうもよくあるケースなのか深夜2時頃でも電話に出て、いろいろその後どうするかを教えてくれ、結局とある葬祭場の部屋に仮安置することになりました。


 1時間ほど待っていると葬儀社の車と担当者が来て、母をストレッチャーに乗せ換え、車まで運んでそのまま乗せ、目的の仮安置用の葬祭場へ向かいました。
 たまたま希望した自宅から近い葬祭会館が当日に予約があり、部屋が空いていない理由で別の空いていた葬祭場の部屋に仮安置することになったのです。


 本来は誰かが付き添っている必要があったのかもしれませんが、母の仮安置の部屋で葬祭場の担当者と通夜や葬儀などの細かい打ち合わせをしていると朝になり、私と兄は徹夜だったしその後の通夜や葬儀のために休んだ方がよいと考え、母を残して自宅へ帰りました。


 葬儀は家族葬で行うことは決めていて、それは母は高齢だったので友人知人も既にこの世におらず、家族だけで見送りたいと思っていたからです。
 本来は29日通夜で3月1日葬儀の日程だったのでしょうが、希望する会館の空きがないことから一日ずらして3月1日通夜で2日葬儀と決めたのは、遠方からやって来る姉たちの都合も考慮したためですが、実際は我々にとっても時間の余裕が出来て助かることになりました。


 29日はゆっくりできるのかと思っていてもそうではなく、朝から兄へは葬儀社の担当者から生前の母の事を問い合わせる電話があったり、私は私で葬儀に使う遺影用の画像準備や葬儀で流すビデオ作りで寝る暇がありませんでした。


 そんなこんなで慌ただしく通夜・葬儀と無事に済み、徐々に普段の生活に戻りましたが、まだ母のわずかな遺産である銀行預金や実家の所有権移転の手続きが残っていて、明日は午前中に兄と法務局へ行き、移転登記手続きのための書類の事前チェックと可能なら提出まで終えたいと思っています。


 こうしたわずかな遺産は兄姉妹弟4人で話し合い、全てこれまで母の世話を任せていた兄が相続することに決めていて、私はこうした手続きには直接は関係ない立場ですが可能な部分は手伝いたいと思っていて、明日も私が車に乗せて法務局へ向かう予定です。


 今日は11時から依頼していた坊さんが来て四十九日法要のお経を上げてもらい、終わった後は参加した4家族で昼食会をしました。
 仏教の教えでは故人は死後この世から中陰と呼ばれる世界へ行き、極楽に行くか地獄に行くかの審判を待つことになりますが、49日間は残された遺族は一生懸命に故人のために極楽へ行けるように祈ることになる期間だそうです。

 ただ実家は浄土真宗なので、真宗の教えでは故人は死後すぐに極楽へ行くとあり、死後の法要は「故人へ感謝を伝えるもの」という位置づけになるようです。


 何はともあれ、今回は初七日から始まり1週間ごとに実家でお参りをするささやかな法要らしきことを行いました。
 内容は仏壇の前で祈り、集まってお茶会をするような程度のものでしたが、真宗でいう故人へ感謝を伝えるというより「故人を偲ぶ会」のようなものでした。


 四十九日を過ぎてやっと忌中が明けることになりますが、私はそこまで信心深くは無く、葬儀後もすぐゴルフに行ったりと普段の生活に戻っています。
 とりあえず、これで一つの区切りが終わったということで、今後は徐々に私自身が次の出番を待つ時期になるのでしょう。


 今日のチャオ。毛を刈った分、動きが軽やかになったように見えます。