三重苦ゴルファーの日記

67歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

私のゴルフの歩み

 今日の体温も37度9分ほどあり、なかなか平熱に戻る気配がないものです。このままでは、来週の1人予約も今週のようにキャンセルすることになりそうですが、幸い月曜日は当初から予定がなく、火曜日からなのでそれまでの回復を期待しています。


 一人で寝ているとだんだんと「この後はどうなるのだろ?」と不安になるもので、スカ総理が打ち出した新型コロナ中等症までの自宅療養方針は、ただでさえ命の危険がある当事者たちにとって、医療を受けられないまま「死」と隣り合わせで時間の経過を待つしかない状況に不安しかないはずです。


 私は、抗原検査で新型コロナ感染は否定されているものの、一週間以上も高熱が続く状況で、私でさえ横になっているとこのまま死んでしまうのかなと悪い予想も起きるほどで、新型コロナの自宅療養者にはより手厚いフォローが必須です。


 なんとなく、自分自身のこれまでを振り返ることは、先が短いのではと思わされますが、前向きなことが制限されていれば、後ろ向きな話題になってしまうことは仕方ないものです。
 今日は私がゴルフを始めた頃や、ハマった時期、そして離れた時期などのことを纏めておきたいと思います。


 ゴルフを始めた頃は誰でもまず100切りを目指しますが、あるデータでは約7割のゴルファーが平均スコアで100切り出来ていないという結果になっているようです。
 つまり一般的なアマチュアゴルファーは、100前後のスコアが平均像で、90台のスコアが出たかと思うと100オーバーのスコアが出る、そのようなレベルにいるということです。


 私の経験からも、最初にゴルフを始めた40歳頃の1年間は100切りなどできず、90台のスコアで回る人はとても上手だと思っていて、80台で回る人がいたら神様みたいに感じていたものでした。
 当時の職場のコンペで、高遊原CCのメンバーさんと一緒になり、その方の90台前半のスコアに心底から「凄いですね!」と言ったら「90台は大したスコアではない」と苦笑いされたものですが、自分が経験できないレベルのスコアは、はるか上の届かないものだと感じたものです。


 当時の自分のゴルフを振り返れば、全くの我流でとにかくドライバーを振り回し、フェアウェーウッドは使えなかったのでアイアンでセカンド以降を打っていて、コースマネジメントなど全く考えていないゴルフでした。
 その職場でのその後の2年間ではパーが時々は取れ始めるようになり、ゴルフが楽しくなっていった時期ですが、スコアは100を切ったり切らなかったりのレベルでした。


 そのゴルフが盛んな市内の大規模な職場から転勤で、秘境五家荘の入り口にある小規模な職場に変わりゴルフとは遠ざかる環境になり、4年間ラウンドもしなかったものですが、その4年後の次の勤務地は県北の大規模校でした。


 小規模校ではなんでもやる必要があったのですが、大規模校では役割が固定され、夕方の時間を持て余し、30キロの通勤の途中にあった練習場で開催されていた「熊日ゴルフ学校」というレッスン会に参加してみることにしました。


 結果的に、このレッスン会は全く役に立たないものでしたが、終わった後に同じ練習場で開催されていた個別のグループレッスンがあり、最初の3か月は当時の県内チャンピオンのレッスンを受け、その後2年半ほどをあまり評判の良いとは言えない別の先生のレッスンを受けることにしました。


 結果的に、この評判の良くない先生のレッスンのおかげで、今の自分があると思っています。その前に受けたチャンピオンのグループレッスンでも教えてくれることはほとんどなく、適当に打っていてという程度で、これでは上手くならないと思っていました。


 評判が良くない先生なのでレッスン生は少なく、新規が入って来てもすぐに止めてしまうのは、かなり煩く指導されたからです。
 2年半で最後まで続いたのは、私を含め3人だけで、それ以外はすぐに来なくなるのは、見た目がオールバックで怖そうな風貌に合わせ、とにかく怒られるからです。


 その練習場には当時小学校低学年の重永亜斗夢プロも通っていましたが、物おじしない子で私が新しいドライバーを買った際には「おじさん、打たせて!」と借りに来るような子でした。
 我々のレッスンの近くでいつも1人で練習していて、ときどきは父親が教えていたようですが、ほぼ1人だけでコーチもつけずに練習していたようです。


 練習場には18ホールのショートコースも併設されていて、ナイター照明もあったためレッスンではコースを使った実地練習も多く取り入れられていました。
 ほとんどのホールが5~60yのパー3でしたが、お客がいない遅い時間帯ではティー以外の場所から打つことで右ドックのパー4を作り出し、ドライバーを振れるホールを作ってそこをレッスンでは利用していました。


 ある日、私が1mのパットを無造作に打って外した際に、目から火が出るほどの怒られ方をされた記憶があります。
 「その1打はもう取り戻せないもの。真剣に打って外したらまだしも、無造作に打つなんて」という内容の怒られ方でした。


 結局2年半のレッスンは私の天草への異動が決まり終わりましたが、その間もいろんなゴルフ場でラウンドレッスンがあり、ゴルフ場のマナーを喧しく注意されました。
 ゴルフ場への到着を1時間半前と習慣づけられたのも、この先生の方針であり、ラウンド内容を記憶できなければスコアカードに書いてメモし、ラウンド後の反省会で自分でホール毎に振り返って反省できるようにすることも教えの一つでした。


 ティーへの上り下りの場所も階段以外を使ったら激しく怒られたし、素振りを人に向かって行った際も危険だと怒られました。
 昼食休憩中に一緒のレッスン生がビールを注文した際に、私も注文しようとしたら止められ、もしラウンド中にアルコールを飲んだら破門するとも言われました。


 なぜ、私にだけ厳しかったのかは、最初に目標を聞かれ「パープレー」と答えたためで、先生からは「そのつもりで厳しく教える」と最初に宣言されていたからです。
 ビールの件も「あの人は『レジャーとしてゴルフを楽しめれるレベルになりたい』と希望したから飲んでも文句を言わないけど、あなたはパープレーを目指すのだから遊び感覚では目標達成できない」と言われたものです。


 それでもレッスンを受けていた際のクラブハンディは当初の13から11になっていましたが、スコア的には85を切れれば満足というレベルでもありました。


 天草に赴任し、夜はゴルフの練習に専念できるようになり、ほぼ毎日、17時を過ぎると職場の玄関で夜間常駐の警備員との引継ぎを待つ間に素振りを行ったり、渡廊下のマットの上でパター練習を繰り返し、日中が長い時期は誰もいないグラウンドで70y前後のアプローチショット練習を行っていました。


 もちろん、本来は許されないことですが、当時は児童生徒が施設に帰った16時過ぎには職員はほぼ居なくなり、周囲は人里離れた外部とは切り離された環境だったというのんびりした職場だったということも大きかったものです。

(外部との出入り口は橋が1つだけと、まるで陸の孤島のような場所にありました)


 夜は本渡市内に唯一あった練習場に通い、1コイン50球だけ借りてそれを持ってバンカーでまず練習し、その後は回収した50球でラフから5mほど離れたサイドネットに向かってアイアンショットの練習をし、最後に回収した最初の50球でドライバーの練習をするという日課を続けていました。


 土日は当時「宇土見上CC」と呼ばれていた1時間半ほど離れたメンバーコースだったチェリー宇土に行ってラウンドしていました。
 さすがにこれだけゴルフ漬けの生活を送ると、クラブハンディも一気にシングル入りし、最高は6まで上昇しましたが、その反動が次の転勤で出てしまいます。


 4年後の転勤は県南の社会教育施設で、2年間の勤務でしたが、わずか正職員10人+嘱託4人で最大400名の宿泊者を半年間は無休で受け入れることになり、もちろん勤務は交代勤務なので毎日2人が休みになりますが、職員の人数不足のため職務以外の仕事も行わなければならず、小型船舶免許を取得してマリン活動の際の補助に回ったりしていて、この時期はゴルフをほぼ忘れた時期になりました。

(当時も食堂には委託業者が入っていて、その業者が宿泊棟の布団などの管理や浴室の管理なども行っていましたが、それ以外のこの広大な施設の管理をたった14人で行わなければならないものでした。現在は指定管理者制度になっています)

(この画像は後年にソフトボール部員を連れてミニ合宿をした際のマリン活動の様子。このカッター船は定員18人ですが、部員を2艘に分けたため12人ほどの乗船になっています)

(立っているのは指導の施設職員で、私の在職中は左手前のゴムボートで支援活動を行っていました。操舵が上手くいかなかった際は、カッター船の船首をボートで押して方向を修正したりします)


 当時は職員の勤務を割り振る立場上、土日は家庭がある職員を交代に休みにするため、私のたまの休日は平日だけになり、そんな日も出勤することにしていました。
 もっとも10月から3月まで一気に利用者が減り、前期の忙しさが嘘のように暇になることになり、要は一年を通して均せば普通の勤務だというものです。


 やっと暇になった10月頃からゴルフをする職員とラウンドに行ったりしていましたが、転勤後に県内の4つの社会教育施設対抗ゴルフ大会が始まり、10年ほど参加していたものの最近は立ち消えとなってしまっています。


 次の転勤先でもゴルフの情熱は沸き上がらず、最後の転勤先でも同様で、やっと退職後に暇になって改めてゴルフを再開したものです。


 私の歴史を振り返っても、ゴルフに熱中した時期もあれば離れた時期もあるというもので、その時期にゴルフ以外に熱中するものができれば、ゴルフは忘れてしまうものです。
 ゴルフを始めた後に転勤した先では卓球指導に熱中していたし、その後の異動先で本格的にゴルフを再開し、天草の4年間は暇な時間が多く、ゴルフに熱中できました。

(最後の職場ではソフトボール部の監督を行っていました)


 天草から異動したその後の2年間と次の2年間、最後の5年間はそれぞれで忙しく、ゴルフに熱中することはなかったものです。
 結局、暇にならないとゴルフに取り組んでいなかったことが分かり、ゴルフの優先度は私の中ではそんなに高くないことが分かります。
 この数年は、ラウンド数が多くなっていますが、いつ興味が次のものに移ってしまうかは自分でも分からず、要は熱しやすく冷めやすいという性格からなのでしょう。


 体調不良でしばらくゴルフから離れ、復帰しても調子が上がらなければ興味を失ってしまうかもしれず、そうならないように早くラウンドに復帰したいものです。