三重苦ゴルファーの日記

69歳になった飛ばない・寄らない・入らないの三重苦を持つシニアゴルファーの日記です。

大欲は無欲に似たり

 16日のオープンコンペでの話題です。
 赤水の練習グリーンでHDCP4.6の方と一緒になりました。この方は対外試合にも積極的に出場する方で、今年の社長杯マッチプレー準決勝で対戦し、敢え無く敗退した相手です。
 昨年は同じ社長杯の決勝で当たり、当時は本人から「アプローチイップス」と聞いていて、大事なところでミスがあり、辛勝したのですが、今年は全くスキがなかったのです。


 「イップスは?」と尋ねたら「克服しました! 難しいライから練習したので、たいていの場所は簡単に思えます」と答えがあり、その後は会うたびに親しく話をする間柄になりました。


 実は、9月13日の菊池にも来ていて、練習グリーンで足を出す(転がす)アプローチの打ち方を教えてもらっていたのです。
 以前はスピンをかけるようなアプローチをしていたそうで、それだとスピンコントロールが難しく、距離の調節が難しかったため、今はフェースを若干だけですが返すようにしてランを出すアプローチに変えたと言っていました。


 足を出すアプローチは、アバウトな打ち方でもそれなりに寄って行くとのことで、練習場でもほぼカップ周辺50センチ以内に球が集まっていて、私の2m内に比較して圧倒的に正確さが高かったのです。


 赤水の練習グリーンでは、アプローチもそうですが、すべてのショットに挑む前の心の持ち方について教わりました。
 彼が言うには、アプローチにしてもパットにしても、「格好悪い」打ち方はしないということを心掛けているそうです。


 よくアプローチを寄せたいのか、打った後に身体をくねらせたり、パットでカップインさせようと変な動きをするゴルファーがいます。
 ヘッドアップも結果を気にする意識から誘発される動きで、よくおじさんゴルファーに見られる、打ったと同時に身体が球を追う姿も格好悪いものです。
 当たり前ですが打った後の球はコントロールできないため、寄ろうが入ろうが関係なく、アプローチではしっかりフィニッシュを決め、パットでもしっかり球が止まるまでヒットした後の形を崩さないことが大事だと言っていました。


 そうすれば、入らなくても周りから見れば、入るように見え、ミスしたように見えないからとのことですが、要は結果は求めず、目の前の球だけに集中する意識だそうです。
 ややもすれば、結果を求める意識が先走り、それが原因でミスを起こすため、結果ではなく、「今」を大事にするという意識だと言っていました。


 寄るか寄らないか、入るか入らないか、結果は気にせず、自分が決めたラインに自分が決めた力加減で、打てるかどうかだけに集中すべきで、剣道で言えば「残心」と言うべき、心を手元に残しておくのだそうです。


 心がカップ方向に行ってしまえばミスも出やすく、心を手元に残していれば、カップの方が入っても入らなくても結果を素直に受け入れることができるようです。


 確かに自分を顧みれば、ショートパットを入れたいと思うがあまり、打った後に顔が球を追ってしまい、それが原因でヘッドがずれてミスヒットするケースが多いのです。
 昨日のグラチャンの最終18番で、その悪い癖が出てしまいました。


 グラチャンのグリーンは、チャンスと言えるラインはほぼ一定方向からしかなく、18番は珍しく上りのストレートな5mという絶好の位置でした。
 「届けば入る!」と思ってヒットしたら、擦ったような当たりになってしまい、1mもショートしたのです。
 結果を気にするあまり、ヘッドアップした結果、フェースで球をヒットする前に手元が上がってヒットミスしてしまったのです。


 「入れたい」という「欲」が意識を先のカップにやってしまい、ヘッドアップに繋がった典型的なミスで、傍目にも格好悪い打ち方をしたのだろうなと思ってしまいます。


 物理的に頭が上がらないよう気を付けても、なぜか動いてしまうのは、心を手元に置いていないためで、そのためには打った後の「残心」を心がけようと思ってはいますが、まだまだ未熟な自分がいるのです。

(この写真は昨日グラチャンに行く途中で撮影したものです。熊本地震で壊滅的な被害を受けた益城の中心地ですが、倒壊した建物はなくなりましたが、新しい住宅は見えず倉庫のようなものばかりです)


 格言の「大欲は無欲に似たり」とは、「大望を抱いてる者は小さな欲になど目もくれないから、一見無欲に見えるということ」のほかに「欲が深すぎる人は欲に惑わされて損をすることがあり、結局は無欲と同じような結果になるということ」の意味がありますが、私は後者なのです。
 赤水の上級者は前者であり、大望を抱いているからこそ、目の前の結果に囚われないようにしているのでしょう。


 ゴルフはつくづく単なる球遊びではないということが分かってきました。